日 々 の 出 来 事
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日々の出来事
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平成20年(2008)8月度の記録
8月31日(日) 1986年−陸羽地震、M7.2,死者210人。 2003年−100系が、東海道新幹線の定期列車から引退。
明け方何度か目が覚めた事もあって何時もの起床が遅くなる。午前中は家内の集まりへ送迎を兼ね行く予定である為、聊かバタつく・・・が、何せ腰が思うように成らない、何とか間に合う。
皆さん方に、この度の事を気使って頂き沢山の言葉を頂いた。自身多少は思っているものの、「瘠せたねー・・・」が一番こたえた。阿蘇へ移住以来ここまで約7〜8Kの減少であり、尤もな事だが・・・、
お昼頃姉妹の皆さんが我が食物をご心配され沢山差し入れして下さった。皆さんお忙しい所を無理に引き止め、ギリギリまで留まって頂き、多くの労いと励ましをもらった。それから少し遅めには成ったがお昼をゆっくり摂った。
HPの立ち遅れ分を何とかしなければ成らないが・・・高岳の動画は昨日IPアドレスを修正した筈だったが、又変わっていたので本日再修正をする。よってライブで動画はご覧頂けるであろう。その他のライブカメラは明日より稼働させますので宜しくです・・・。
現在の風さん作成の「休止中画面」の仙酔峡ロープウェイの画像もなかなか良くて変えるに変えれないところもあったりで・・・延び延びになってしまいました。悪しからず・・・、
8月30日(土) 1974年−三菱重工爆破事件。8人が死亡、376人が負傷。東アジア半日武装戦線による事件。 1973年−江夏豊が対中日戦でノーヒットノーラン達成。 1970年−植村直己がマッキンリーに登頂。日本人初の五大陸最高峰登頂。
何する事無く朝はゆっくりする。昨日退院時に預かったS井Drからの病態返書を届けると共に先日からお世話頂いた事へのお礼方々K閑医院を訪ねる。しかし逆にこの度の出来事に対し、労いの言葉を頂いた。今後の有変事や薬のお手配方をお願いし、その足で風さんを訪ねる。
氏は相変わらず元気そのものであった。実に羨ましい限りである。美味しい坂梨のミネラルウォーターを御馳走に成り、そして何点か買い物して帰宅。丁度M石B、Sがお出でになっていて、幾らかお待ちに成っていたのかも?
ここまでの経緯等をお話し(立ち話であった)少しでも・・・とお勧めしたが、後にされた。
そんな頃家内が息子家族と共に帰って来た。1週間振りであった、元気そうで何よりだ。子どもたちは1時間程休憩した後、又OM田へトンボ帰りした。皆さんも大変ご苦労様でした、ありがとう、次回も宜しくネ!と言ったが・・・
この様な身に成っている為、此処暫くは食の中身と言うか調理方法を変えざるを得ない、気長に時間かけやるしか無いが・・・
8月20日(火)〜29日(金)
8月29日(金) 入院十日目 退院
昨日からの急変や状況変化も無く本日10日目になったが、退院となり、諸手続の後、払うもをものを払い、看護師ステーションに挨拶し帰路に着く。院内にずっと居たので外気が如何程か分からなかったが、然程高くは無いようだ。病院からJR南熊本を経由し肥後大津、宮地と偶にはJRも良いものだ、と思う。しかし道中何度か少しであったが目眩を覚える。
家に辿り着いてまず思った事は雑草伸び放題の状況であった。・・・がその気には流石に成れず部屋にて暫し休む。やおらHPを立ち上げたところ、沢山の書き込みに驚くやら嬉しいやらで・・・皆さんにこれ程ご心配を掛け、気使って頂いていた事に改めて有り難く感謝の気持で一杯に成る。ご心配を掛けました、数々のお力添え誠に有難う御座いました。
病院内の看護師の方々(代表してNさん、N本さん)や薬剤師のU田さん、栄養士のM上さん、そしてS井Dr,又2ヶ月後にはお会いしますが、お世話になりました、皆さん有難う御座いました。
当院はこの様な診療科目がある。中々綺麗な新しい病院だが、入院費のみがクレジットが利用できそれ以外はすべて現金払いである。
8月28日(木) 入院九日目 血液検査
朝一のチェックと血液採取、値が上がっている事を願うばかりだ。お隣のベッドのM永さん、早くから着替えられその時を待って居られたが、10時前に「それでは一足お先に、又お会いしましょう」と言って退院されていった。
お昼前には貧血値が9.9に成っている事が伝わって来て明日の予定は間違いないでしょうとの事。こちらもそそくさと片付けの真似ごと?をする。(片付けようにも物が殆ど無い)
午後に成ってお風呂にゆっくり入る。そして一休憩の後、リハビリに行く。昨日の指摘の件、敷物やバスタオルで見事に改善されていて何の違和感もなく受療する事が出来た。(これまでは皆さん我慢していたのかな?)
夕方前にS井Drが現れ、「貧血状態は良くなって来ているので明日でOKです、後は2ヶ月後に一度胃を見せて下さい、先方の先生に手紙を書きますから近いうちに持って行くように・・・、それではお元気で」、
腰の痛み止め薬については何も無しではだめだろうからと、極て作用は薄いが胃にやさしいとされる物を出して呉れた。早速今夕から服用したが正にその通りであった。
8月27日(水) 入院八日目
検査や治療らしきものは一切無い一日であった。朝一に何時ものバイタルチェックのみ、それと何時もの(毎朝7時40分頃)S井Drの「どうですか?」「鉄剤は飲んでますね」と言う容態チェック。
朝食後にモヨオシタ○○は量も形も色も通常と変わらず、看護師さんも「これで先ず一安心ですね」と言ってくれる。午前中整形の診察が予定されている・・と連絡が入り、「それでは早めにお風呂にするか」と9時過ぎに使わして貰う。
10時半、整形受診する。先日のブロックの件を話するも特にコメント無し、常時足先のシビレがある事なども訴えるが「予定通りの9月5日のMRIで最終判断をしましょう、痛い時は何時もの薬を飲んで下さい」「あれは消化器Drより止められてます」「あッそうか、じゃしょうがないね・・・・」、兎に角此方としてもその日の結果を待って此方としての判断をする事としよう。
午後は院内のリハビリステーションに行き牽引を行う・・・が器具が一昔前のものであろうか?上部(腕・肩)を固定する方法がロープを左右の脇から背中を通して固定する方法なので、寝ている間は背中にそのロープが当たり痛いのである。その状況を告げると「痛いなら止めても良いよ」・・・対策では無い、依って「その部分にバスタオル等置けば良いではないか」「そうですね・・・」、・・・・
部屋内の隣のベッドで治療されていたM永さん、明日退院だそうで午後暫しお話しする。矢部にお住まいで造園業をされているようで、「阿蘇にもちょくちょく行ってるから、その時は寄らして下さい」と、どんな形で再会出来るか楽しみでもある。
8月26日(火) 入院七日目 胃カメラ 鉄剤服用開始(夕)
今朝はカメラ受診の為、昨夜8時過ぎから絶食である。口内の濯ぎは良いが・・・9時半から始まったカメラは程なく終わり「OK」と言う声が聞こえていた。そして10時半にはシャワーも終わった。
昼飯が何とも美味かった。殆ど9割近く食べた。食べた後も違和感なしであった。そんな事だから、その後は雑誌読みやテレビで夕刻まで何ともダラダラ過ごす。
16時頃S井Drが来られ「カメラはOK,今夕から鉄分の補給をする、そして明後日血液検査をして、結果が出れば29日(金)に退院となるであろう」との事となった。
8月25日(月) 入院六日目 血液検査
朝一のチェックで血圧が104、気が重い・・・が9時過ぎのチェックで110に上がり(誤差範囲か)、少し気が晴れる。朝食後に○○有り、通常に近い色に成って来た、確かに出血は止まっているようだ。今日は整形も受診する為早めにシャワーを使う。タイミングよく整形より呼び出しが有り、先日のルートブロックの結果を報告する・・・、「もう一度やってみよう」との事で再度処置室へ行く。午後からはリハビリ室で牽引をやるようにとも言われる。
今回のブロックは痛かった、神経に直接、そしていきなり針先が到達したようで「ああッー」と言った途端激痛が走る、動かずにうつ伏せの状態が保てず何とか逃れたい気持で体を捩ろうとするが「動いたらダメ、押さえてッ・・」と叫ぶ声がした。ホンの一瞬ビリッとするだけですから・・・と言うのはどの状態の時だろうか?騙して受けさせる為だろうか?と不信感が溢れかえる。
2〜3分は動けなかった、こんなに痛みを伴うものならもう2度と遣りたくないと思う?だがその後は少しの効果はあったようで部分的には以前より増しだった。(だがこれもその後2日続いただけでその後は元に戻ってしまう)ただの2日程度の事なら我慢した方が良さそうだ。
15時過ぎ「採血の結果、値が良くなっているので明日カメラで確認する、その結果で鉄剤を補給しよう」との事。
昼間の激痛は思い出したくも無いが、偶に頭を過る。
8月24日(日) 入院五日目
今朝の食事時より胃薬も服用する事に成った。昨日までの5分粥が全粥となる、少しだが回復過程を感じる。昨日までの雨天、曇天が今日は久し振りに晴れた。窓から北西の方向に金峰山がみえる。ここは7階なので、晴れていれば視界は良好で素晴らしい。
家内と同行し阿蘇で一泊した子供達がお昼過ぎに寄り、暫く雰囲気を和ませた後帰って行った。
3時前後だったろうか、ご近所のU野さんがお見舞いに来られた。退屈だろうからと心の癒しや文春、ナンプレ等持って来てくださった。この度の経緯等話し中に今度は近くにお住まいのMさんご夫婦のお見舞いを受ける。大そうな果物を頂戴した・・・が食べる事が出来ない。どうしたものかと少し悩む。
8月23日(土) 入院四日目 血液検査 胃薬服用開始
朝一番のチェック時辺りから胸やけ?ムカ付き?か、喉の直ぐそこまで物が閊えているような感じがする、血圧が一向に戻らない、起き上がってトイレ用足しでさえ、依然としてフラ付きを伴う。しかし朝食は半分以上食べる事が出来た。
朝の回診時、Drより「シャワー程度ならOK」が出る。早速使わして貰った。お昼頃家内を連れて長男家族が見舞方々阿蘇行きを計画し、その途中寄ってくれた。暫く雑談し阿蘇へ発った。
その後は特段の事は無く、点滴用固定針は既に3日以上となったので外します・・と言って両方の腕から全てを取り払ってくれた。お昼過ぎ頃、やっと待望の○○が出る、未だ通常の色では無い、4日振りであった。
8月22日(金) 入院三日目 胃カメラ 点滴 潰瘍薬服用開始
今日も6時過ぎから点滴が開始される。4時間作動で4本だそうだ。16時間だから午後10時迄となる、昨日と同じだが長い。その間又しても胃内のカメラ確認が入る。検査前には此れまでのように胃の保護用溶液を飲み、喉スプレーによる麻酔を受け、更には胃の働きを抑える為の注射を肩に受け、もう一つ点滴用管から何やら血管痛がするものを注入される。それから内部の確認や検査が為されるのであろう・・・。
幸いにも今回も再出血は無いそうでヤレヤレである。病室へ戻ると花が届いていて、お名前に記憶が無いため、間違いではないのか?と問い合わせをして貰う・・・が届け先もそれ以上は分かりかねる等と意味不明な事を言う。(後日長男の関係先であった事が分かる)
午後に成って待望の飲料OKが出る。慌てず急がずゆっくり飲めと言うが・・・逸る気持ちを抑え、ゆっくりきき酒風に飲む、一息も二息も付けた。夕方に成ってS井Drより夕食OKが出た。3日振りか?潰瘍食で五分粥である、スープ、具なし茶碗蒸し、ひき肉ジャガホーレンソーのお浸しであったが、味はしっかり付いていて美味しく感じた・・・が5〜6割を食したところで腹一杯の状態、依って残すものの、その後の特段の変調は無かった。
8月21日(木) 入院二日目 血液検査 胃カメラ 点滴
未明に家族たちが帰った後、少しの明かりと頻繁に出入りする看護師さんの気配や自身の緊急状態から抜け出せた安堵感もあってか、中々寝付けなかった。明け方夜が白々する頃?か「チェックでェーす・・・」で目が覚める。(6時前か?)
一口の水分が欲しいが儘為らない、何やら・・・の点滴のみである。そうこうしている内に「再度胃カメラでェーす」と、ベッドからストレッチャーに乗せ換えて頂き、あの見慣れた光景を辿りながら検査室へ行く、今回も又喉部のスプレー麻酔のみであった。昨日の止血が奏功しているかの確認が主たる目的だったようだ。「血の塊が残っているが大丈夫だろう・・・」等と聞こえてきた。場合によっては吐物するかも知れない等とも後で聞いたが、今日の所は多少のムカつきはあったが、吐く事は無かった。
11時半にカメラを終えた事により2時間後から口内のウガイのみOKとの事、待ち遠しかった・・5回ほど漱いだだろうか、水の有り難さが身に沁みる。
一端阿蘇に帰り、暫く息子夫婦の所で過ごす事になる為その準備をしてきた家内と息子がやって来た。S病院に立ち寄り家内の次月分の薬も貰ってきた・・・との由、これでまた安心材料が増えた事に成る。私の状況を見て二人とも「良かった」と言い残しOM田へ帰って行った。
この間も止まることなく点滴は続いた、1本を4時間で今日も明日も4本やるそうだ。腕の向きによってはこの注入口の上部がやたら痛い時があり、その都度こうか?そっちか?と動かす事になる。
そんな頃K井さんご夫婦がお見舞いに来られ、やせ衰え、ヒゲ茫々のダラしない姿を晒す事となった。この事は17時過ぎに様子見に来られた風さんが撮影された写真が公開された事により後日判明した事であった。
口を漱ぐ事は許されたが、未だに一滴たりとも飲むことは終日許されなかった。
8月20日(水) 入院初日 血液検査 胃カメラ 点滴
今週初めから何となく体がふらつき力が入らない、月、火の2日間休みで体が萎えたかな?等と思いつつ少々の作業をするが目眩がひどく立つことすら容易では無くなってくる、汗の出方も何時もと違っていた。排便の色も通常とは違っていて今日で3日目であった。もうこれ以上我慢できず、先日K閑医院で検査済みであり、まさか?との思いは有ったが当院を訪ねる・・・。
恐れていた事が一気にやって来る。「今直ぐにでも受け入れるから・・・」と先方からの回答であったが、此方としては、通常では分からないであろう諸準備が出来ていないのである。
明日朝一で伺いますから・・と言って医院を後にする。準備を始めるも体が動かなくなる、「少し休んでから始めるか」と、横に成る。
小1時間も過ぎただろうか?その後のトイレで倒れてしまう・・・気が遠のいて行く様が分かっていた、「何とかせねば、どうにか此処から出なければ・・・」と思うばかりで動けない。
それからどれ位の時が経ったのか分からないが病院行きの準備を自分の着替えをしながら、やっていた。家内の用意もし、幾つかの届け出やお断り等の連絡を済ませた辺りから又ふら付き出し、目眩がひどくなる、この状況では最早自家用は無理と判断し、P車の要請を考える。
其の頃、A野BSやS村Sが「車で送るから」と言って駆けつけてくれた・・・が自家用では受け入れが困難であろうとの考えからP車のお願いをする。
病院到着21時20分頃??、応急手当中にDr到着、それから約1時間位か?内視鏡による止血術他が行われた、と聞いた。その間は結構辛かった、全体の麻酔では無く、喉のみの(スプレーによる)麻酔であった為、他人の動きも、声も、そして慌ただしさも見聞き出来た。オープンと言えば聞こえは良いが、何だか生贄の状況にも見えたに違いない。
ともあれそんな入院初日であった、遅くまで援助頂いた皆さん本当にお疲れ様でした、有難うございました。
処置後、病院に駆けつけてくれた子供と家内と共に監視室へ入り、二人が阿蘇へ帰り始めた時は0時頃になっていた。
8月19日(火) 1980年−新宿西口バス放火事件。6人が死亡、14人が重軽傷。 1747年−新潟県糸魚川市の姫川が集中豪雨により氾濫。65軒226人が流出する。
何もしなかった、と言うよりこのお天気であり、この雨では致し方無い。それでもお昼前後の雨上がりを見計らって2〜3の用足しに町へ下りる。朝食が遅かったので今日のお昼はコーヒーとサンド、トマト程度で何の不足も感じなかった。
午後も特段の事は無い、敢えて体を動かさず、じっと耐えていた。身体が少しおかしい?のかな。明日は少し動いてみようかとも考えるが、明日に成って決める事にする。
8月18日(月) 1968年−飛騨川バス転落事故。岐阜県白川町で集中豪雨が起こり、土砂崩れにより観光バス2台が飛騨川に転落し、104人死亡。
今日から又通常の生活になるが・・・、私が熊本市内で用件がある為、家内を少し早めに迎えに来て頂いた。市内はこの時間帯でも結構車が混んでいて、着いたのは10時半となった。
本日は腰痛対策でルートブロックを施術された為、シャワーもダメとの由、午後からは汗をかく作業等は一切しなかった・・・が菜園の実りの収穫のみ作業した。
明日も特段の事はやらない事としている・・・、・・・。何となく体が「ダル重」・・・、
8月17日(日) 1982年−世界初のCDが製造された。ABBAの「TheVisitors]であった。1963年−沖縄本島と久米島を結ぶ「みどり丸」転覆・沈没。死者・行方不明112人。 1945年−松川事件(東北本線でレールが外され列車が脱線・転覆、乗務員が死亡)。
家内は昨日の疲れが有るのか矢張り予定時刻には起床出来なかった、しかし声を掛けるとガバッと起き「行くよ・・・」との事。バタバタしたが昨日よりは少し早く出る事が出来た。しかし到着してみると、既に沢山の方が来ておられた、流石だねェ――、
昨日FAXで連絡を頂いたS渡さんや川内在住時のT中さんが朝一着席するや否やお訪ね頂いた。開始前とお昼休みに、今日も沢山の方々とお会いする事が出来た。家内は、その都度良くお名前や当時の状況を思い出していた・・・が、今夜も頭の中が非常に混雑している事だろう。(写真・1)、(写真・2)、(写真・3)、(写真・4)、(写真・5)。 お名前は写真1からKなちゃんとY実ちゃん、2がM辺さんとH本さんとK柳さん、3がHさん、4が川内のT中さんとS渡さん、5が大牟田のT中さんとS渡さんであった。
今夜も早くから休んでしまったので、確認がとれず・・・、地元の方(K井さんとMご夫妻)は良く存じ上げているが・・・
整然とした開催状況(写真・6)(写真・7) お集まりの皆さん方の総数は(約6500〜6300名)であった。座っているだけであったが、三日間、今にも壊れそうなこの腰もよく耐えてくれた・・・しばらく休息である。
この度お会いして頂いた沢山の方々本当に有難うございました。次回お会い出来る時はもっと回復しているように努めたいと思ってます。まだまだ暑さも続くと思われますが、どうかお身体を労られご無理などなさらぬようお過ごし下さい。此方へお出での節はどうぞお寄り下さい、お待ちしております。
8月16日(土) 2007年−岐阜県多治見市(14時20分)および埼玉県熊谷市(14時42分)にて観測史上日本最高気温40.9℃を観測。 2005年−宮城県男鹿半島沖を震源とするマグニチュード7.2の地震発生(宮城県南部地震)。
昨日に続き本日2日目、昨日の反省もあり、クッション付きの席を確保すべく、予定通り早めに出掛ける。今日は近くのK井さんとご一緒出来たのでいろいろ話しながらの道中となった。今日もそのイスに一日中座っていたが、今日は今日で新たな痛みもあった。
昨日のN島さんが、家内のOM田時代のO野さんご夫妻や子供さん(Hろこさん、Tもこさん)をお連れに成り、面会にやって来られた。家内も久し振りで十分に再会を満喫していた。
又、妹のK子さんともお待たせ・・・のご対面であった。積もる話も沢山あったであろう、長い昼休みもあッと言う間に過ぎた感じで・・・17時過ぎには2日目が終了し、帰ろうかと言う時に今度はK賀J子さんが会いに来てくれ、お互いに涙腺が緩んでいた様だ・・・。
生憎帰る間際からの雷雨で傘も無くPまでの約3〜400mを濡れながらそして水たまりに足を取られながら、やっと車に辿り着くが、そこそこ?以上に濡れていた、夏で良かった??
今日も沢山の方と再会出来、雨の中を帰って来たことも手伝ってか、お風呂後はドッと疲れが来たのであろう?その後は冷茶を一杯飲むのがやっとで・・・バタンキューであった。明日もう一日頑張れるかどうか?
更には22時過ぎにS渡さんからFAXが入る、明日大会に来られるようで「再会が楽しみです」と言う事だったが、生憎休んでいたので代わりにメールで連絡する。
8月15日(金) 1964年−富士山頂レーダーが設置され、太平洋で発生する台風の接近予知が可能となる(世界初の高所設置気象用レーダー)。 1945年−昭和天皇による、いわゆる「玉音放送」が行われる。1914年−パナマ運河開通。
家内の活動参加では最大の行事でもある地域大会と称する催しが熊本である為、重い腰にムチ当てながら出掛ける。今回で4度目の付添となるが、今回の会場はイスが硬く用意していたクッションでは役に立たず、聊か辛い状況ではあった。明日は何とかせねば成らない・・・
今回はH岡やK本県の各地から集まって居られるようで6,500名以上だと発表されていた、家内は「何方か知っている人居ないかなァー」とお昼の休みに見ていたが、○○さんを見つけ・・・それを機に皆さんが集まってくれたようだ。(もう一枚)。もう何年ぶりに成るのか私には分からないが・・・
明日も早く7時過ぎには出掛ける事になる、体調をしっかり整え、確りサポートせねば・・・。
玄関脇の花壇の状況はこの通りです(14日撮影)
8月14日(木) 専売特許の日 2006年−日本の首都圏で大規模な停電が発生。旧江戸川を航行中のクレーン船のアームが架線を引っ掛け停電させたもの。 1999年−玄倉川水難事故発生。
特段の事象は無かった・・・日中はそこそこ暑く、俄雨?や雷を伴った夕立ち等で何度か雨が降った。兎に角阿蘇の夕立は雨粒が大きく・・・ビックリする位である。午後は外に出る気がせず、ゆっくり過ごす。特に無し。
明日から三日間は家内のお供で市内へ出かける事になっている。
8月13日(水) 1927年−大阪放送局(現NHK大阪放送局)が全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)の試合を生中継、日本初のスポーツ生中継となった。 2007年−世界最長寿の女性皆川ヨ子さん亡くなる(114歳7ヶ月)。尚この年の1月当時、長寿世界一男性の男性は宮崎県の田鍋友時さん(112歳)で、男女揃って日本人が長寿世界一となっていた。
予定通りS病院へRの受療に行く。ところがご担当されていた、理学療法士のE松さんは今月末での勤務終了とお聞きしていた積もりであったが、正確には明後日の15日迄との事・・・今日が最後となった。彼女には本当に良くして頂いたと思っている。彼女のお蔭で元の腕以上に回復させて頂いたと・・・決して過言では無い。お幸せに・・・と願うばかり。今後はご担当も変わるであろうから、Drと良く相談してみる・・・、
その後少しの買い物に周り、11時過ぎには阿蘇方向へ車を向けたが、「ミルクロード入口交差点」辺りから車の混雑が始まり、とうとう渋滞に出くわす。一車線になった先でUターンし、ミルクロード経由で帰って来た・・・お盆の帰省ラッシュか?
家内はお昼過ぎからの活動に参加する約束であったが、今日の昼寝は可也深く起きれない様子の為、キャンセルさせて頂く。大した事は無かったが、K井ご夫妻が態々様子を見に来られた。菜園の話など・・・序に、でも無かったが、その足でU野さんのお宅拝見へと発展した。
8月12日(火) 1985年−日本航空123便墜落事故発生、日本航空のジャンボ機が群馬県の高天原山の山腹(御巣鷹の尾根)に墜落。乗客乗員520名が死亡、4人が生存。 1962年−堀江健一が小型ヨット「マーメイド号」で日本人初の太平洋単独横断に成功し、サンフランシスコに到着。
心配事は早めに手を打たねば・・・と、K閑医院に行く。熱も無く血圧も喉も正常で?必要も無かっただろうが、X線もお願いして無事を再確認した。「みなさんに好評ですから・・・」と言って、咳止め用の水薬をくれた。一安心だが・・・、
今日は腰の具合が結構気に成らないほど良かった、庭作業もボチボチ出来た。仮植えしていた苗木を所定の位置へ本植えする。そして玄関脇のスペースに花壇を設置した。(写真は後日掲載・・・本日撮り忘れ)
明日は久々となるが大津の病院でのリハビリ予約日となっている、午前中はしっかり掛るであろう。
8月11日(月) 1999年−潜水調査船「しんかい6500」が宮城県沖での試験潜航で6527メートルの海底に到達し、世界記録を樹立。 1936年−ベルリンオリンピックの女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が優勝。日本人女性として初めての金メダルを獲得した。
明け方家内の咳が何時に無く多かった様だったが、起床後は何事も無かったかの表情で、熱も通常であり何時ものように出掛けさせた。
家内が出掛けた後、整形外科受診のための順番を取りに行く。生憎その間に風さんとご友人の方が立ち寄られた様で、すれ違いを演じてしまうが、幸い仙酔峡から有線(では無く携帯、いやケータイか?)が入り今度はタイミングが合い、次の訪問地へ移動される途中、寄ってもらった。K賀さんと仰り風さんと一回りも?違うとご紹介を受けた。僅かの途中下車であり、次は火口方面と言われていたが・・・良い写真撮れたかな?
花苗を地植えする場所の若干の体裁を整えるべく残っていた「グリ石」を使って少し嵩上げした。庭全体の構想が未だに決まってない為、思案しながらの作業となる。他の事も序にやった為、今日は此処までであった。
この時間風さんところは花火がピークを迎えているようだ(21時30分)。今夜は動画を見ながらの出来事制作であった。
8月10日(日) 1956年−東海村の原子力研究所起工式。 1945年−前日から行われていた御前会議で、国体維持を条件としてポツダム宣言の受託を決定する。 1788年−モーツァルトが、自身最後の交響曲となる交響曲41番を完成させる。
今日は久々気持ち良い晴れであった(気分高揚か?)。遠路遥々神戸系由にてあの「ひげさん」が奥様を伴って来蘇された。氏は先週末から夏休みとの事で、大分の郷里に於けるお墓まいりで帰省されたらしく、序に此処阿蘇へ足を延ばして呉れた様だ。今年の株主総会で再会はしたが、それ以来である。(大した期間では無いが・・・) お忙しいようで僅かの滞在であった。再度の訪問・再会を約し帰路の人となった。
その後家内はお昼寝すると言って、床に付いたものの、わずか2〜30分で起き、お隣のU野さんとこへ行って来る・・・と、出掛けて行った。その間今日は大きな作業はその気に成れず、先日頂いていて植え切れて無かった花苗を一部プランターへ植え込む。
だが、それでも植え切れず、明日地植えする事にし、今日の所はその場所を耕し、若干の堆肥を施して置いた。
8月 9日(土) 長崎原爆忌 1945年−午前11時2分に、米軍のB−29爆撃機「ボックスカー」により、プルトニウム原子爆弾「ファットマン」が長崎市に投下された。これにより、およそ7万人の人々が死亡し、市街は壊滅。8月6日の広島に続く2度目の原子爆弾投下を受け、御前会議が開かれる。その結果、翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定する。 1999年−国旗国歌法成立。
今日は久々晴れ渡った、お昼前から相当暑かったが、記録を見れば真夏日には達しなかったようだ。涼しい日が続いていたので、少し堪えたか?午前中は残った芝刈りはそっちのけで幾つかの買い物に終始する。
午後に残りの刈り込みを行う。何とか終える事が出来た。今週の火曜日から始めた今回の芝刈りは予想通り今日まで掛った、と言うよりやっと終える事が出来たと言うところ・・・。だが片付け含め全て終わった。次は2週間後位になるであろうか?・・・、
朝一番に久々にトマトの収穫、他ピーマン、ミニトマト、オクラ、インゲンが出来ていた。そして例の冬瓜が益々でかくなって来ている。
8月 8日(金) 2005年−郵政民営化関連法案が参議院で否決され、第2次小泉内閣は衆議院を解散(郵政解散)。 1973年−金大中事件。 1967年−米軍燃料輸送列車事故。
阿蘇はこの2〜3日で秋に突入した感がある。朝夕の涼しさ、否ある種寒さを感じる事もある・・・そんな時期になった。未だお盆前である。へェーそうなのか・・・とつくづく感じる。
ここ2〜3日腰痛が再燃したかのように痛みが走る、痛み止めも遅々として・・・市内まで行ってどうやら年貢の納め時か?とも考える・・・が、大した作業もしてないし、やはり・・・。
残りの芝刈りを雨の合間を縫って行う・・・、今日の出来は此処まで。
8月 7日(木) 1996年−俳優・渥美清(8月4日歿)の訃報が松竹より公表される。 1985年−土井隆雄・毛利衛・向井千秋の3名が日本人初の宇宙飛行士に選ばれる。 1977年−有珠山大噴火。
明け方寒くて目が覚め、慌てて少し開けているガラス戸を閉める。別の物を重ねて再度眠りへ・・・。そんな事だったから起床は7時前になってしまった。朝の涼しさを満喫しながらゆっくり朝食を頂く。偶には味噌汁・卵・ノリやアジの干物等も良いかも知れない。
家内は定刻に出て行った。さて「今日もみっちりやるか」と取り掛かる。途中休憩を挟んで・・・間もなくお昼かなァと言う頃、ザァーッと一雨くる。引き上げてみれば、丁度12時であった。大した降りでは無かったので早々に外へ・・・と思ったが又降り出した、結局様子を見定めてから掛ったので時は13時半になっていた。
今回は例の「サッチ」と呼ばれる芝の切りカスを出来るだけ取り除こうとしている為時間が掛かる。もう1〜2日を要するだろう。今日、16時半現在でここまでの出来である。(写真1、写真2)
お昼からも何度か雨が有り芝にとっても、人間さまにとっても誠に結構な事である。明日も宜しくと言ったところか?
8月 6日(水) 広島原爆忌 1945年−午前8時15分に、米軍のB−29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下された。これにより、一瞬のうちに14万人が死亡し、市街は壊滅。この歴史的悲劇から目を背けない為に犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈る為に、この日広島市では原爆慰霊祭が行われる。 1993年−鹿児島市を中心とした地域で集中豪雨の被害(平成5年8月豪雨)。 1923年−事実上の国内最高気温である42.5℃を徳島県鳴門市で観測。
午前中の家内は活動へ参加すると言うので、お近くのMさんが運転される車にK井さんも同乗され、迎えに来て頂いた。Mさんは初登場になります、穏やかで優しい方です、お手を煩わせますが、今後ともよろしくお願いします。帰りはK井ご夫妻が送って下さった。暑い中、有難うございました。
扨、ご一緒して戴いたので、この時間は昨日の続きとなる北側の芝刈りに充てる。途中、生憎訪問者があった為、家内が帰ってくるまでには、刈り取る事さえ出来なかった。結局16時過ぎにやっと片付け含め完了となる、但し、北面のみであって未だこの量の2倍が残っている・・。
今日の作業を終え、我が菜園から採れたインゲンを塩茹でする。皆さんそれぞれ趣向もあるが、私は定番で今夜はゴマじょうゆをかけて頂いた。新鮮さが良く分かった。
8月 5日(火) 土用の丑の日(二の丑) 2002年−住民基本台帳ネットワークが開始。 1945年−湯の花トンネル列車銃撃事件。 1912年−東京有楽町で日本初のタクシー会社が設立される。
午前中から何時降ってもおかしくないような雲行だったが、降らないときは本当に降ってくれない、それでも昼過ぎにパラパラと来たので「良しッ」とばかりに期待したが、雷鳴をを伴うばかりで・・・やっと17時半頃になって一雨が来た。お湿りとしては今一つだったが、貴重であった。
見るからに芝の生育が不揃いであり、散水しようと思ったが、その前に刈ってみよう、台地がどうなってるか見てみよう、それからだ・・・と。
この度は刈り込み深さを”此れまでより深くやってみるか”と地面すれすれを目指して(要は短く・・・である)やってみた。今後どのようになるか分からないが、地面はサラサラに乾いていて均一では無い、そのような箇所がそこそこに有る事が分かり、更には深めに切っているので以前の刈りカスが留まっている状況もある。生え方にムラがある事との関連性・・・。(生育状況に依って地面が変化するのか?・・・)
そうか!目土と散水、刈り込み頻度、そして肥料の関係が何となく分かったような気がしてきた。夕方の雨は正に恵みの・・・と言ったところだがもう少し降ってくれれば・・・、今回は念入りにやっている為、時間が掛りそうだ。初日の今日は16時迄で全体の30%弱の出来でしか無い。こんな事では今週一杯掛るかも・・・。イヤそれでは終わらないかも・・・。
8月 4日(月) 1978年−古賀政男に国民栄誉賞が授与される。 1947年−最高裁判所発足。 1899年−日本初の「ビヤホール」が銀座8丁目に開業。
日中暑い事は暑いが、ひと頃に比べれば随分変わって来ている感じ、朝晩が全く違う、寒い位だ。鳥の鳴き声は然程変わっていない様に聞こえるが、蝉の種類が変わって来た、(以前にも確か書いたと思うが・・・)
お昼前後パラッと来たがお湿りにも成らなかった。この日照りの影響だろうか、芝が少し痛み始めたかな?手当が分からないので取り敢えず明日散水してみよう・・・そして今日やっと土留めの竹柵が一応完成した。後は庭に山積みしている土を均して平面にしなければ成らない。
今時は野芝など購入できるのかなァー、そして活着するのだろうか?暑い時期は避けねば?
夕方、先週末からお出でになっていたNAKAさんご夫妻がご帰還前に訪ねて下さった。次回は来週末からで少しだけ滞在が長いそうである。
町へ出た際に久し振りにT印刷の社長を表敬訪問した。オペレーターの女性も顔見知りであり、即話題に入ってくれた。品の良い方たちである(写真を撮りたかったが・・・)。社長にはストーブの薪についても、一方ならぬお世話を頂いている。大スポンサーでもある、お元気そうであった、これからも宜しくお願いしまァーす。
8月 3日(日) 1965年−松代群発地震が始まる。 1927年−明治神宮野球場で第1回都市対抗野球が開幕。
本日は日曜日である為、通常ならば何時もの家内の行動に午前中はお付き合いする所であるが、孫達の予定に合わせ、公開講演のみ参加させてもらい、皆が待つ我が家へ一端戻る。
矢張りシーズンとでも言おうか、草千里周辺は人と車で混雑気味、孫2人はお目当ての乗馬に上機嫌であった。しかし親為らずとも、あの僅か五分足らずの、約200m程の乗馬時間にあれほどの料金を設定しているのか・・・と、甚だ疑問と言うか・・・ボッタクリ?等とは他所もんは言われないが・・・、きっと最近は飼葉等の経費も高騰しているに違いない?
良く見ていると、殆どが子供さんや何処かの嫁さん(失礼!、奥さま)やお嬢様方が圧倒的に多いようである、子供さんや奥様方の喜ぶ姿は親、ダンナとしては嬉しい?事に違いはないだろう、こんな場面で金銭云々はご法度なのだ、イヤハヤこれには正にご同慶?と言ったところ・・・。
幸いその事で呆気に取られていたところ、料金はママが払っていた様で・・・。お姉ちゃんは昨年に続いて今回が2度目、妹の方は初めての経験であったようだ。怖がることも不安がる事も無く、風で飛ばされるかも知れない帽子が気になるようで、片手は常にそちら・・・の余裕ぶりでもあった。
お昼は我々が集会中に作ってくれていたおにぎり等を中岳や草千里、烏帽子岳を眺めながら頂く、振り返れば杵島岳が間近に聳え・・・木陰はヒヤッとする位、標高が高い事が分かる・・・子供は遊具に目が無い、その後、序に・・・と、火口まで上がり、遊歩道を一周のコース(写真1、写真2、写真3、)を巡り、久々火口と中岳を間近に見て昔の記憶を蘇らせたところでもあった。風が強かったので皆さんの帽子は車中に置いて・・・。
帰り着いたところ、家内が世話になっている施設でお世話を頂いたI野さんが玄関で待って居られ、態々この度ご勇退されたそのご挨拶にと来て頂いていたのだ。お世話をした方がご挨拶等・・・此方が挨拶ならまだしも・・・恐縮至極であった。居所を確かめねばならない・・・、他人の思いの深さに触れ、何時かのヤケが反省させられる。
来訪者は日が高いうちに、帰って行った。それに合わせるかのように、家内はバタンキューとなり、私は草取りや菜園の手入れ等・・・又しても忙しかった。
8月 2日(土) 1970年−東京都内で初めての歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施される。 1928年−アムステルダム五輪、織田幹雄が三段跳びで日本人で初めてとなる金メダルを獲得。
息子家族が五月の連休以来の訪問である。その到着タイムぴったしに風さんがお出でになった。正にドンピシャリのタイミング、おまけにその時間我々も買い物に出かけようかと、ドアロックし・・・と言う時間、こんな事が有るのだろうかと言うほどのタイミングであった。風さんは「いやァーたまたま・・・」と言われながら帰って行かれたが・・・済みませんでした、
家内は今日の土曜日はデイをお休みしたものの、朝早くからU野さんところをお邪魔し、結局ドライブする事になったようで「菊池水源へ・・・」ご迷惑は充分承知し、お願いをした。
そして丁度お昼頃K井ご夫妻が訪ねて来られ、次回からの集まりの件をお知らせくださった。、家内は生憎出掛け中で、失礼しました。
今日も暑かった・・・が、朝夕は何やら涼しい気配がある、此処阿蘇ではもう秋の気配がそこそこ近づいているようだ。蝉の鳴き声も変わってきた。
お昼過ぎに孫達はやってきた。日に焼けた元気な姿を見せた、何よりである。買い物に行ったり、食を共にしたり、庭を駆けたり、花火を楽しんだりで、時の経つのは実に早いもので・・・、もうこの時間お休みになっている。この頃はほんの2〜3ヶ月と言えど成長が早いと感じる、お姉ちゃんも妹も随分大きくなっているし、言動が違う、違っていた。・・・と言って、親や親族は目じりが下がり、良く見えるものではあるが・・・・・・、
8月 1日(金) 八朔 2002年−中日ドラゴンズの川上憲伸が巨人戦でノーヒットノーランを達成。 2000年−新500円硬貨発行。
今日から8月になった。別に今日に合わせた訳では無いが衣類の入れ替え・片付け、布団類の整理など一日中こんな事で終始した。依って今日は作業着は着ていない。圧縮袋で整理する前に虫干しや風に当てたり・・・又序にと、シーツも外して洗濯など・・・と汗拭きふきの此方も重労働?であった。
片が付いたのが凡そ4時半頃、少し疲れもあったが、花壇に例の物を・・・と家内に急き立てられ、サルビアと金魚草を植えた。花苗を植えるなど、此方へ来てからでは初めてでは無いだろうか?
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